彼はありふれた、これといって世間から注目される能力が有るわけでも、卑下される謂れの有るわけでもない、月並みに言えばごく平凡な男子学生だった。 別段彼はそれを気にすることもなく、寧ろかえってこの穏やかな生活が気に入っていたので彼自身でもこれでいいのだと思っていた。 子供好きな彼は生来のその柔和さと面倒見の良さでもって、近所の子供たちの人気者だった。 彼は幸せだった。 *** その日の講義を終え、彼は家に向かっていた。家にはきっと彼の帰宅を待つ子供たちが集まっているのだろう。今日は何をして遊ぼうか――、と考えを巡らせれば自然と口元が弛んでしまう。本当に、子供の笑顔とは、彼に幸福をもたらすものなのだ。 後方から迫ってくるバタバタという忙しない足音で、彼は思考にふけっていた意識を現実に引き戻されてしまった。振り向こうとした瞬間、足元を鈴の音が、そのすぐ後に小柄な影が通り過ぎていく。 呆気に取られていた彼はハッ、として姿を追うと、小柄な影が黒い小さな猫――おそらく鈴をつけている――を追いかけ十字路の角を出るところだった。 そこは交通事故の多い場所ということで近辺では有名だ。取り付けてあるカーブミラーの方向が悪く、角の様子がうつらないから。 嫌な汗が途端に滲み、走り出す。先の十字路で大きなクラクションが鳴った。 高いブレーキ音の中、小柄な影はその足を止め、茫然と迫り来るそれを見、彼を見て。 間に合え――! 最後に大きく一歩を踏み出す彼は同時に手を伸ばし、そして突き飛ばされた影の零す小さな悲鳴。 安堵と重い衝撃が、身体を走る。 激痛の替わりに訪れた奇妙な浮遊感と共に、彼はその生涯の終わりを悟った。 |