+ 水沫の界(第一章1)

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 板書がてらに黒板の上方に掛けてある時計を確認する。
 授業終了のチャイムまであと十分だ。ここまで来ると、時間の流れが極度に遅く感じられるのは何故だろう。毎度毎度不思議に思うのだけれど。
 内心で溜息を落としつつ、聖歌は疲労にまかせて心地よい睡魔の中に沈んでいった。


 聖歌は県立の高校に通う、ごく普通の女子高校生――ではなかった。
 天涯孤独、というワケではないのだが施設育ちの子供なのである。もちろん奨学金入学。わざわざ競争率の高い県立校に入ったのも、常に金銭的な問題を抱える施設のため。
 本来なら中学卒業の時点で施設を発つのが一般的。聖歌の場合、諸事情のため施設に残っている。
 もちろん、内密に。
 施設の先生方の器の広さというか寛容さには頭が上がらない。いつか首が回らなくなってしまいそうだな、と密かに聖歌は思っていたりする。


 じわり、滲んだ雫が頬を伝っていく感触。意識が覚醒へと向かう。 「ん……」
 ねっとりとした時期独特の空気に包まれて、不快感に苛立ちながら聖歌は目を開けた。
 視界は白くぼやけていた。よく見ると、ノートだった。
 そういえば居眠りをしてしまった気がするなあ、と思い出しつつ顔を上げれば、
(――あれ?)
 空の教室。西側の窓から日差しが眩しい。
 いや、そうではなくて。
 寝たのは授業中だったはずだが、今は冗談のような夕陽が窓から差し込んでいる。あともう数十分もすれば星も瞬き始め、夜の到来となるだろう。ばっちり下校時刻オーバーだ。
(――つまり、起こされなかったわけ……)
 あの陰険教師め、と毒づき、急に襲われた脱力感に突っ伏した。
 このまま寝てしまおうかな。

「考えが無いよ、セイカ。あの先生の授業で寝るなんてさ」

 突然の明るい声に、伏していた机から顔を上げる。  後ろを振り返るも、窓から差し込む夕陽が眩しくて声の主である少年の顔が見えない。

「……アサギ、居たなら起こしてよ」
「だってこんなことって滅多にないし?」
 ねえ、と首を傾げてみせる少年――アサギとは、もう十年来の関係だ。
 浅葱はは同じ養育施設に預けられた孤児仲間だった。
 聖歌が4歳の頃、両親は交通事故で他界。親戚はつまらない理由で聖歌を煙たがり、施設によこしたのだが――そこで出会ったのが、浅葱だった。
 実を言うと聖歌自身は来た当初のことはうろ覚えで、よく思い出せない。
 ただ、気の置けない施設の中。一番歳が近いという理由で紹介された浅葱が放っていた、どこか異彩な雰囲気だけはハッキリと覚えている。
 それに与えられた、安堵と多少の恐怖も。

 まあそれは今でも変わらないのだけれど、と内心呟きながら唯一無二の幼なじみを眺めた。
 どうでもいいかもしれないが、白皙の美貌、とでも言うのか。白い肌に色素の薄い瞳と髪。中性的な容貌。
 相変わらず、浅葱は随分と整った顔立ちをしているな。

「セイカ?」
「ああ……ごめん、何でもない」
 つい、無言で凝視してしまった。
 少し見惚れていたのかもしれない。
 どれだけ共に過ごしていてもこの雰囲気に飲まれてしまう時がある。こんなに近しい関係になった今でさえどこか遠くにいるような、一線を臥した先に居るような。どうしようもない疎外感を感じさせるものが、そこにあるのだ。
 これも、今更のこと。
「そろそろ帰らないと、先生が死にそうだよね」
「だね、じゃあ帰ろっか」

 鞄を取り出し、教材と筆記用具を中に入れる。
 それを肩にかけ、立ち上がって机の上にある消しゴムのカスを軽く手で払い落とす。
 先に教室を出て行った浅葱の後を小走りで追いかける。
 廊下を歩く浅葱の後ろ姿。校舎を照らす蛍光灯の明かり。どこかで鳴いている鳥の声。

 これが見慣れた日常の最後と知らず、聖歌は浅葱の隣を歩く。
 始まりの夜は、すぐそこまで来ていた。




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